第3講 救い主なるイエスへの信仰

わたしは信じる-『使徒信条』によるキリスト教信仰の学び

 第3講 救い主なるイエスへの信仰(問29~30)


問29 なぜ神の御子は「イエス」すなわち「救済者」と呼ばれるのですか。


 それは、この方がわたしたちを、わたしたちの罪から救ってくださるからであり、

唯一の救いをほかの誰かに求めたり、ましてや見出すことなどできないからです。


1.イエスという名の意味

 これまでは「使徒信条」の第一部、天地の造り主、全能の父なる神について考えてい

きました。そしてこれからは第二部、神の御子、わたしたちの主イエス・キリストにつ

いて考えていきます。そこではまず最初に、「われは神の独り子、我らの主、イエス・

キリストを信ず」と全体を要約してから、この方の誕生から十字架の死と復活、昇天、

再臨までを告白していきます。信仰問答は、その一番最初の「イエス」と告白すること

について教えていきます。そこでこのイエスという方とは、一体どのような方かと問う

とき、まずこの方の「名」から始めました。「名」を問う問いから、この方とは一体ど

なたであるかを尋ねたのです。今日では、必ずしもその人の「名」と人格とが一致する

わけではありません。しかし聖書の世界では、「名」はその人自身を体現するものであ

り、「名」は実体を現わしました。この「イエス」という名は、両親の願望や期待では

なく、神御自身によりつけられた名で(マタイ1章21節)、そこに神の御心が反映さ

れ、主ご自身の神からの使命を現わすものとなっています。その使命とは「自分の民を

罪から救う」ことです。主イエスはその名においてもわたしたちの「罪からの救い主」

でした。そしてわたしたちを罪から救いだすために、この方はごくありふれた、誰一人

気にとめることのない平凡な名をもって、この地上においでくださったのでした。豪華

な王宮ではなく家畜小屋でひそやかに生まれ、その名をもって住民登録をされ、税金を

課せられ、人間の支配者に支配されて、苦しめられる者の一人となってくださったので

す。父ヨセフの死後は、母マリアと四人の弟のほか、妹たちを育てて、生計を維持して

いくことに苦労され、重税にあえぎながら、飢えと渇きに悩まされ、疲労困憊し、心萎

え、悲しみ、涙することもありました。そして埃まみれになりながら地上を歩かれ、

神々しさも神秘さも、何一つ感じられることがない普通の人として、わたしたちと全く

同じ人間となってくださったのです。そしてこの世の中に生き、しいたげられつつ歩む

者と同じになってくださることで、その人々の罪を贖う救い主となられたのでした。

「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかった

が、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4章

15節)。「それでイエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民

の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。

事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けるこ

とがおできになるのです」(ヘブライ2章17、18節)。


 こうして聖なる神の子が、わたしたちと同じ肉体を取ってくださいました。それによ

り、この方は死すべき肉体を身に引き受け、肉体をもつ苦しみと悩み、その弱さも危う

さもみな知りつくしたお方として、わたしたちの傍らに共に立ってくださるのです。こ

の肉体をもって犯すわたしたちの罪の諸々の悩みを知るものとして、わたしたちの兄弟

となってくださったのです。それは、わたしたちの良き理解者として、良き兄弟となら

れたということなのでした。そのために主は母の胎に宿るところからわたしたちと同じ

になってくださり、それによって罪をもってはらまれたわたしたちの罪の人生を、その

初めから「やり直して」くださり、それによって肉をもって辿る人生のあらゆる苦しみ

と試練とを身をもって味わい尽くしてくださったのでした。主イエスもわたしたちと同

じ苦しみを受けられた、それはわたしたちにとって大きな慰めです。わたしたちが辿る

人生の道行きでのあらゆる苦しみを、この方は既に知っておられるのであり、その方を

人生の同伴者として歩んでいくのですから、なんと心強いことでしょうか。わたしたち

は自分の人生の確かな道案内であり、深い同情者、理解者を持つのです。主は、その地

上の全生涯、つまりこの世のご生涯の全ての時において苦しみを受けられ、およそ人が

経験し味わうところのあらゆる苦難を通ってくださったのであり、主が「あらゆる点

で」わたしたちと等しくなられたというとき、そこでわたしたちは、今自分が抱えてい

る苦しみの本当の理解者であり解決者である方を持っているのです。


 しかし聖なる神の子が、なぜそこまでしてくださったかというなら、それは「民の罪

を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかった」ということ

でした。わたしたちは本来、「神のただしい裁きによって、この世と永遠との刑罰に

値する」ものであり、そのためには「完全な償い」をしなければなりませんでした(問

12)。そしてその「神の義は、罪を犯した人間自身が、その罪を償うことを求めてい

ますが、自ら罪人であるような人が、他の人の罪の償いをすることなどできない」の

です(問16)。そこで「完全な贖いと義のために」、聖なる神の子が人間となって、わ

たしたちのために身代わりとして死ぬことで、わたしたちのための贖いを成し遂げてく

ださったのでした。「神は・・・罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世

に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」(ローマ8章3節)。「罪と

何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはそ

の方によって神の義を得ることができたのです」(2コリント5章21節)。やがてこの

方がつけられた十字架とは、バラバと呼ばれるイエス(マタイ27章16節)の十字架であ

り、バラバの身代わりとして殺されたのです。バラバと同じ名を持つことによって、バ

ラバの身代わりとなられ、バラバのために死なれたのです。こうして主はご自分が、一

体どのような「罪からの救い主」であるかを明らかにされました。それはバラバのよう

に、自分の名に示された本来の使命を果たすこともできない罪人自身のために、彼の身

代わりとなって死ぬことにおいて、罪からの救い主となってくださったのでした。


2.贖いにより「主のもの」に

 この主イエスについての告白は、わたしたちとの関係において考えていくべきもので

す。主イエスとは、神との関係でいえば「神の子」であり、わたしたちとの関係でいえ

ば「わたしたちの主」です。本来「神の子」である方が、「わたしたちの主」となって

くださった、それによってわたしたちも神の子とされた、ですからこの二つは切り離す

ことができないのです。この方がわたしたちを贖ってくださり、そのことによってわた

したちはこの方につながる者とされ、わたしたちも神の子とされました。問33では、

わたしたちも神の子であるのに、なぜこの方は神の「独り子」と呼ばれるのです

」との問いに、「なぜなら、キリストだけが永遠からの本来の神の御子だからで

す。わたしたちはこの方のおかげで、恵みによって神の子とされているのです」と答

えられていきます。わたしたちはキリストという神の実子によって、養子縁組により神

の子とされたのですが、それは『王子と乞食』(オスカー・ワイルド)を連想させます。

王子と乞食は、それぞれに着ていた服を変えることで入れ替わり、違う身分となったの

ですが、キリストはわたしたちにちょうどそれと同じことをしてくださったのでした。

わたしたちはキリストの「義の衣」を着ることで、神の王子とされ、その特権の全てを

手に入れる者とされますが(キリストの義の転嫁)、逆にキリストはわたしたちの罪の

一切を身に背負って、罪人となり(罪の転嫁)、罪人として処刑されました。それに

よってこそ、わたしたちは神から罪赦された者として受け入れられ、ついには神の子と

されたのです。


 「贖い」とは、そのように捕虜として捕らえられていた者を、身代金を支払って解放

すること、あるいは奴隷を代価を払って解放することです。わたしたちは、いわば罪の

奴隷であり、悪魔のとりことされているのですが、そこから解放されるために、キリス

トが代価を支払ってくださったのでした。それが「ご自身の尊い血」、すなわちご自身

の命でした。つまり罪のために死ぬべきわたしたちのために、キリストが身代わりとな

り、わたしたちが受けなければならない罪の刑罰を、一切ご自身に引き受けてくださ

り、わたしの代わりに死んでくださったのでした。それによって罪のわたしは死んだの

ですから、もはやその罪を問われることはなく、裁きも終わったのでした。このように

キリストが、わたし自身の受けるべき罪の裁きを身代わりとして受けてくださったこと

により、わたしが罪と死から解放されたことを「贖い」というのです。その「贖い」に

よってキリストが「わたしたちの主」となり、わたしたちは「主のもの」とされたので

した。「この方はご自分の尊い血をもって、わたしのすべての罪を完全に償い、悪魔

のあらゆる力からわたしを解放してくださいました」(問1)。こうして、「キリス

トは、わたしたちにとって神に知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです」(1コリ

ント1章30節)。


3.神の子としての特権

 そこで得た特権とは、神の御国を受け継ぐ相続人(エフェソ1章11節)であり、神の家

族の一員に受け入れられたことでした。キリストに接ぎ木された者は、キリストを長男

とする新しい家族、神の家族に入れられたのです。わたしたちはキリストによって、全

く新しい家族を与えられました。まことの神を唯一の父として仰ぎ、キリストを長子と

し、聖霊という「愛の絆」で結ばれた神の家族に加えられ、キリストによって結ばれた

新しい兄弟姉妹との交わりを与えられたのです。ペトロはキリストのために「何もかも

捨ててあなたに従って参りました」と告白しましたが、それに答えて主は「家、兄弟、

姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」と約束なさいました

(マルコ10章28~31節)。こうしてわたしたちは、この方によって、全く新しい家族に

迎え入れられ、新しい兄弟、また姉妹を与えられたのでした。血を分けた兄弟以上の交

わりがそこに有り、血の繋がりとは違う関わりがそこにあります。わたしたちは地上に

あって、血を分けた家族だからといって、必ずしも心の通いあいがあるとはいえませ

ん。時には骨肉相はむ争いもあります。そして家族の中にあってさえ、孤独を覚えるわ

たしたちです。しかし主イエスは、そのわたしたちを御自身のものとし、わたしたちを

神の子とし、新しい父、母、兄弟、姉妹を与えてくださいました。そしてわたしたちは

この地上にあって、この方への信仰を、神の家族の交わりに支えられ、守られながら歩

むことが許されているのです。そしてキリストはわたしたちの主であり、わたしたちは

キリストのものとされました。それはキリストに隷属した不自由な生き方というのでは

なく、主がわたしたちを「ご自分のもの」と見なしてくださるということです。わたし

たちは自分の物は大切にするように、わたしたちの主キリストは、わたしたちをご自分

の大切な宝物として、大切に扱ってくださり、守ってくださるのです。わたしが他の人

からはどのように映ろうとも、「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなた

を愛している」と言ってくださるのです(イザヤ43章4節)。


 こうして、「神の御子は『イエス』すなわち『救済者』と呼ばれる」のですが、

それは、この方がわたしたちを、わたしたちの罪から救ってくださるから」である

と語られるだけではなくて、「唯一の救いをほかの誰かに求めたり、ましてや見出す

ことなどできない」と続けられます。そしてそれに、「それでは自分の幸福や救い

を、聖人や自分自身やほかのどこかに求めている人々は、唯一の救済者イエスを信じ

ているといえますか」という問いが続けられます。わたしたちが、この地上の何か別の

ものに依存し、それを拠り所としているとするなら、同じ問題を抱いていることになり

ます。ある人にとってそれは、やりがいのある仕事であるかもしれませんし、ある人に

とっては、それが銀行の預金や保険であるかもしれません。ある人にとっては、大事な

家族であるかもしれませんし、体の健康であるかもしれません。主イエスを信じている

と言いつつ、実際には、主イエスではなく、地上の何かに依り頼んでいるとすると、そ

れは「唯一の救済者イエスを信じている」とは言えないことになるのだと、語られて

いくのです。これに対して、「この救い主を真実な信仰を持って受け入れ、自分の救

いに必要なことすべてを、この方のうちに持たねばならないか」と求められます。わ

たしたちは如何でしょうか。