第1講 全能でありつつ、私の父である神を信じる

わたしは信じる-『使徒信条』によるキリスト教信仰の学び

 第1講:全能でありつつ、わたしの父である神を信じる(問26)

 

問26 「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と唱える時、あなたは何を信

    じているのですか。

 

天と地とその中にあるすべてのものを無から創造され、それらをその永遠の熟慮と

摂理とによって、今も保ち支配しておられる、わたしたちの主イエス・キリストの永

遠の御父が、御子キリストのゆえに、わたしの神またわたしの父であられる、という

ことです。

 わたしはこの方により頼んでいますので、この方が体と魂に必要なものすべてを、

わたしに備えてくださること、また、たとえこの涙の谷間(悩み多い生涯)へ、いか

なる災いを下されたとしても、それらをわたしのために益としてくださることを、信

じて疑わないのです。なぜなら、この方は、全能の神としてそのことがおできになる

ばかりか、真実な父としてそれを望んでもおられるからです。

 

1.なぜ「父なる神」なのか

これから『使徒信条』によるキリスト教信仰の学びに入っていきます。その最初は、

「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」という告白で、これは「天地を創造さ

れた全能の神が、わたしの父であられる」という信仰を言い表すものです。そこでひっ

かかるのが、「父なる神」という言い方です。どうして神を「父」と呼び、「母」とは

呼ばないのでしょうか。答えを先に申し上げるならば、神を父と呼ぶのは、聖書が神に

ついてそう語るからです。そしてわたしたちがこの方を「父」と呼ぶのは、主イエスが

そう呼ぶように教えられたからでした。それではこの方は、父であって母ではないのか

というと、これはどこまでもわたしたち人間が無限の神を知るための比喩、類比にすぎ

ないのであって、神に性別があるわけではありません。神は霊ですから、体を持たず、

性別もない、そもそも性別を造られたのも神なのです。そして神は、ご自身がどういう

方であるかということと、それがわたしたちとどんな関係にあるかを明らかにするため

に、ご自分を「父」と呼ばれたのです。

 

 しかしさらに、誤解を恐れないで言うならば、神が父であられることの中に、神が母

であられることも含みこまれています。父という言い方で、母も代表して含みこまれて

おり、母であるという面もそこにあるのです。イザヤ49章14~16節では、「シオンは言

う。主はわたしを見捨てられた、わたしの主はわたしを忘れられた、と。女が自分の乳

飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、

女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあ

なたをわたしの手のひらに刻みつける」とあります。自分の腹を痛めて産んだわが子

を、母親は決して忘れない、それ以上に神がわたしたちを忘れ去ることはないと、神の

心にわたしが刻みつけられていると言うのです。しかもそれで忘れないと言われる子と

は、優秀で言うことを聞く良い子ではなくて、ろくでなしの放蕩息子、放蕩娘でした。

自分の方から神を捨て、神から離れて好き勝手に生きた、それによってとんでもない結

果をわが身に招いたのです。自業自得です。だからここで「主はわたしを見捨てられ

た」と嘆くのです。神が自分を捨てたのではなくて、自分が神を捨てたから、神から見

放されても仕方がないのです。しかしその放蕩息子・娘を神は見捨てられなかった。ど

うしてか、わたしがあなたを産んだからだ、どうしてお前を忘れることがあろうかと言

われるのです。またホセア11章3、4節では、「エフライムの腕を支えて歩くことを教

えたのは、わたしだ。わたしは・・・身をかがめて食べさせた」。子供がはいはいから

つかまり立ちして、伝い歩きし、初めて自分の足で歩くようになったときのことを覚え

ておられるでしょうか。あるいは、小さな子供に身をかがめて、「はい、お口を開け

て」と言いながら、食事をさせたことを覚えておられるでしょうか。その様子がここに

描かれています。その子供がどんなに大きくなったとしても、親の心の中では、まだ小

さかったときのその子の様子が心に刻まれているのです。その子は自分を捨て、自分に

逆らっています。しかしだからといってその子を見捨てることができるでしょうか。

「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き

渡すことができようか。わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」と神は

言われるのです(同8節)。

 

2.わたしを生んだ神

 神が父であるということの中に、母でもあられることが含みこまれているのです。し

かし聖書時代の文化の言葉で、それを父に代表させて言われたのです。そしてあえて神

を父と言わせる理由は、神がわたしを生まれたからなのでした。わたしが今、ここに生

き、存在する、それは両親によってです。両親なしにはわたしが存在を始めることはな

かった、両親から自分は生まれたからです。そのことが、神は父であるという言い方に

含まれているのです。神がわたしの父であるとは、神がわたしを生んだ方だということ

です。いや、わたしを産んだのはわたしの母親だと言われるでしょう。体はそうなので

すが、あなた自身、あなたの心あるいは魂は、神があなたを創造され、造られたと信じ

ているのです。確かに体は両親から受け継ぎましたが、わたしの本質、わたし自身は、

両親からではなく、神によって造られ、創造されたのです。顔つきはもちろん、性格も

弱さも才能も、親から受け継ぎました。しかしわたしがわたしであるということ、わた

しの心は神がお造りになったものであり、神がわたしを生まれたのです。親は子を選ぶ

ことができず、子も親を選ぶことはできません。なぜ自分が二十世紀の日本に生まれた

のか、自分で選んだわけではなく、またその両親の許に生まれたことも自分の選択では

なりません。神がそうされたのです。わたしの本質である心と共に、わたしの生み出さ

れた外的環境も神が与えられたものです。それによってわたしたちは自分をはぐくみ、

成長させ、自分自身となってきたわけですから、わたしがわたしであるということは、

実は神がそうなされたということです。地上の両親がわたしを生んだのではなく、両親

はわたしが生み出されるために用いられた器なのであって、わたしを生んだのは神ご自

身なのです。神を天地の造り主と信じるということは、神がかつて遠い昔に天地を創造

されたことを信じるということだけではなくて、このわたし自身を造られた方であるこ

とを信じるということなのです。だからこの方を「父」と呼ぶのです。

 

 そして、親がわが子の成長を見守り、その成り立ちをよく知っておられるように、こ

の方もわたしたちを、わたしたち以上によく知っておられるのです。詩編103編14節で

は、「主はわたしたちをどのように造るべきか知っておられた。わたしたちが塵にすぎ

ないことを御心に留めておられる」。新改訳では、「主はわたしたちの成り立ちを知

り、わたしたちがちりにすぎないことを心に留めておられる」となっています。わたし

たちを造られた方は、わたしたちがどのようにして生まれたか、どのように育ってきた

か、どのような弱さをもち、どんな欠点を持っているかをよく知っておられます。わた

したちが、自分の子供が成長していく中で、どんな問題に直面し、どんなことがあった

かを決して忘れることがないように、そのわたしの弱さをよくわきまえた上でわたしを

導き、わたしを支え、わたしを守ってくださる、それが「我は天地の造り主、全能の父

なる神を信ず」と告白する内容なのです。わたしを造られた方は、わたしの足りなさ、

弱さを知りつつ、わたしを守り抜いてくださる方です。だから神ご自身が、こう約束し

てくださるのです。「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造

られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしの

もの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。

大河を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなた

に燃えつかない。わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い

主。・・・わたしはあなたを愛している」と(イザヤ43章1~4節)。

 

3.神が「わたしの父」であること

 その方が「わたしの神またわたしの父」であると告白されます。信仰問答は、世界の

創造主を、父なる神としてとらえようとしています。しかし神はわたしの創造主である

から、自動的に父なのではありません。神と人間との関係は、罪によって断絶してし

まっているからです。創造主としての関わりはありますが、今やそれはその本来の在り

方から逸脱した被造物に対して、裁き主として対峙しているのです。また神をわたしの

父と呼びうる本来の方は、ただお一人だけで、御子だけです(問33)。しかしこの「

リストの永遠の御父が、御子キリストの故に、わたしの神またわたしの父であられ

」ので、わたしたちはキリストによって、この神を「わたしの父」としていただいた

のです。しかも「父」という意味を、主イエスは変えられました。これまでも神は「イ

スラエルの父」(エレミヤ31章9節)であられました。しかしそこでいわれる父とは、確

かに慈しみの被護者ではあっても、それは民族全体にとっての父であって、一人一人の

父というわけではありません。そこにはなお近づき難い距離があり、神ははるか遠くの

方です。その神を主イエスは「アバ(父)」と呼ばれました。自分の父として、しかも

すぐ近くにおられ、愛と信頼によって結ばれた者として、神を父と呼ばれたのです。こ

こにおいて神は、一人一人にとっての父となってくださいました。神の父であること

は、人格的個人的なものとされたのです。わたしたちは、キリストによって、神を「

たしの父」とお呼びできる交わりへと入れられたのです。しかもそこには、キリストと

いう確かな後ろ盾、保証人がついているのです。神は本当の御子キリストの故に、わた

しをも「神の子」として受け入れ、父であってくださるのです。キリストという保証付

きですから、この神の恩顧は決して変更されたり失われることはありえないのです。

 

 その神が「わたしの父」として、「体と魂に必要なものすべてをわたしに備えてく

ださ」り、いかなる災いも「わたしのために益としてくださる」のです。これらの恵

みの一切が、「わたし」のために為されるのです。そしてこの父なる神の恩顧、慈愛、

恵みは、神が全能の神であられることと結び付けて考えられます。どんなに神が慈愛深

い方であっても、そこに限界や制限を持っておられるなら、なんの意味もありません。

神の守りも支えも恵みも、全ては少しも確かではないからです。そこでは必要の「一

切」が備えられることも、万事が益とされることも信じることはできません。より頼む

こともできません。しかし神の父であること、神の慈愛と恵みは、全能であることと結

び付けられることで告白されます。この世界を創造され、今も御手をもって支配してお

られる、その全能の御力をもって、わたしを恵み、必要の一切が満たされるよう、万事

が益となるように、働いて下さっている、そこにおいてわたしたちは、この方を「わた

しの神またわたしの父」として信じ、信頼することが出来るのです。「なぜなら、こ

の方は、全能の神としてそのことがおできになるばかりか、真実な父としてそれを望

んでもおられるからです。」そしてこのようにわたしを在らしめた方が、今もわたしを

存続させつづけ、しかもキリストという保証によって、確かに「わたしの父」として、

一切を「わたしのため」に為さってくださる、しかもその力をもたれた「全能の神

真実な父」であられるということを信じ、心からこの方に信頼していくことが、この

箇条を信じることなのです。このような方を「わたしの父」として持つことができると

は、何という幸いでしょうか。わたしたちは、世界の創造主、支配者でありたもう、全

能の神を「わたしの真実な父」として持ち、この方の愛と慈しみと守りの中で、その御

手のうちに支えられているのです。その方は、「天と地とその中にあるすべてのもの

を無から創造され、それらを永遠の熟慮と摂理とによって、今も保ち支配しておられ

」方なのです。この方をそのように信じる信仰は、わたしたちを苦難の中で耐えさ

せ、災いの中で立たせていきます。そして、「わたしはこの方により頼んでいますの

で、この方が体と魂に必要なものすべてを、わたしに備えてくださること。また、た

とえこの涙の谷間へ、いかなる災いを下されたとしても、それらをわたしのために益

としてくださることを、信じて疑わないのです」(問26)と告白させていくのです。