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第2講 「わたしは信じる」と共に立つ信仰の言葉

「わたしたちは何を信じるのか」

-信仰の基礎を見つめる二年間(ニカイア信条に学ぶ)

 

第2講:「わたしは信じる」と共に立つ信仰の言葉(マタイ16章13~16節、1月8日)

 

【今週のキーワード:「わたしは信じる」と「わたしたちは信じる」】

 使徒信条とニカイア信条を比べて違う点は、使徒信条が「わたしは信じます」と告白

するのに対して、ニカイア信条は「わたしたちは信じます」となっている点です。「わた

したちは信じます」と「わたしは信じます」。そこにどのような意味があるのでしょう

か。そもそも信条は、洗礼を受ける際の信仰として告白されたもので、洗礼を受けると

き、「あなたは父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊を信じますか」と質問されて、そ

の度に「わたしは信じます」と答えることで、水の中に沈められました。そこから生まれ

たのが信条で、本来は「わたしは信じます」という個別的で主体的なものです。ですから

ここでわたしたちが「わたしたちは信じます」と告白するのは、ここに集まっているわ

たしたちが一人一人それぞれに「わたしは信じます」と告白しながら、その一つ一つの

「わたしは信じます」が集められて、「わたしたちは信じます」という告白として結集さ

れているということです。しかしそこでの「わたし」は、決して孤独ではありません。崩

れそうになる「わたし」を傍らで支えてくれる信仰の家族と共に「わたしは信じます」と

告白する中で、一緒に「わたしたちは信じます」と告白するからです。だからわたしたち

はそれぞれに自分の「わたしは信じます」という告白をしながら、その告白は「わたし

たちは信じます」という大きな信仰の賛美の中に加えられ、支えられて、共に告白され続

けていくものとなるのです。

 

1.「わたしたちは信じます」と「わたしは信じます」

 初めて『ニカイア・コンスタンティノポリス信条』(以下、ニカイア信条と略記)を告

白してみて、使徒信条とはずいぶん違うなと思う点と、逆に使徒信条と似ているなと思う

点があることに気づかれたと思います。色々な違いがありますが、まず最初に気づく違い

は、使徒信条が「我は天地の造り主」と始めて、つまり「わたしは信じます」と告白する

のに対して、ニカイア信条は「わたしたちは信じます」と複数形になっている点です。使

徒信条が西方教会に広がったのに対して、ニカイア信条は最初東方教会から広がりまし

た。元々それぞれの教会にそれぞれの信条があったわけですが、東方教会ではそうした信

条が「わたしたちは信じます」と複数形で告白する伝統があったのに対して、西方教会は

「わたしは信じます」と単数形で告白する伝統がありました。今回のニカイア信条の翻

訳は、ギリシャ語原文からのものです。東方教会はギリシャ語を使う教会だったので、複

数形の「わたしたちは信じます」と告白するのが普通です。それに対して西方教会はラテ

ン語を使います。その最初の言葉はCredoクレドーで、「わたしは信じます」という意味

の言葉で単数形です。ギリシャ語原文を翻訳すれば、ラテン語ではCredimus、「わたし

たちは信じます」と複数形になるはずですが、西方教会では、ニカイア信条も典礼で使

用する時、クレドーつまり「わたしは信じます」と告白しています。宗教音楽に関心のあ

る方なら、クレドーという言葉をご存知でしょう。多くの有名な音楽家がミサ曲を作曲し

ていて、その中にクレドーという部分があります。「わたしは信じます」という意味で信

条を告白する箇所ですから、使徒信条を告白するのかというとそうではなく、それはニカ

イア信条なのです。ただそこでは「わたしたち」ではなく「わたし」と告白します。今回

の翻訳に当たっては、可能な限りの翻訳を入手し、22種の翻訳を参考にしました。やは

りカトリックとルーテル教会の式文にあるニカイア信条は、「わたしは信じます」となっ

ていて、それは当然と思いましたが、意外だったのは日本ハリストス正教会です。日本ハ

リストス教会は、ロシア正教会つまり東方教会です。ですから当然、「わたしたちは」と

複数形で告白するのだと思いましたら、「我信ず」、つまり単数形でした1。実際これま

で二度ほどニコライ堂に行って、このギリシャ正教の礼拝、聖体礼儀に出たことがありま

すが、そこでは「我信ず」と告白していました。「わたしたちは信じます」と「わたしは

信じます」。このどちらが正しいのでしょうか。そしてそこにどのような意味があるのか

を考えてみたいと思います。

 

2.一つ一つの「わたしは信じます」が集められた告白

 前回紹介したとおり、そもそも信条というのは、洗礼を受ける際の信仰として告白され

たものでした。洗礼を受けるとき、「あなたは全能の父なる神を信じますか」「神の子

イエス・キリストを信じますか」「聖霊を信じますか」と三度質問されて、その度に「わ

たしは信じます」と答え、水の中に沈められました。そこから生まれたのが信条です。で

すから最初は、「わたしは信じます」という個別的で主体的なものであったと考えられま

す。信仰は、一人一人の個別的なもので、誰かがその人の代わりに信じてあげるというこ

とはできません。その意味では、「わたしは信じます」という言い方こそが信仰告白と

しては当然でしょう。ですからここでわたしたちは一緒に声を合わせて、「わたしたちは

信じます」と告白しますが、それはここに集まっているわたしたちの一人一人がそれぞれ

に「わたしは信じます」と告白しながら、その一つ一つの「わたしは信じます」が集め

られた告白が、「わたしたちは信じます」という告白となって、神へと告白されているこ

とを覚えたいと思います。ここでわたしたちは、一人一人が「わたしは信じます」と告白

することによって、ただ独り神の前に立たせられます。神へと向き合わされます。そして

また同時にこの世と対峙します。この世に向かって「わたしは信じます」と証しします。

それは時として厳しいものとなりました。前回紹介したパルマティウスという人は、「わ

たしは信じます」と告白して洗礼を受けましたが、その告白のゆえに殉教しました。「わ

たしは信じます」という告白は、自分の命を引き替えにするという大きな代償を支払う

ことを覚悟しなければならないもので、それほどの決意と決断をもって告白するのが「わ

たしは信じます」という言葉なのでした。


 かつて主イエスは、フィリポ・カイサリアに弟子たちを連れ出して、そこで問いまし

た。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」。それに弟子たちは、ヨハネだと

か、エリヤだとか、エレミヤだとか、色々言われていると答えます。その弟子たちに主

は、さらに問いかけました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と。

それにペトロが答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です」と(マタイ16章13~

16節)。主イエスが弟子たちをフィリポ・カイサリアに連れ出して、この問いをされたこ

とには深い意味がありました。カイサリアという地名は、カイザルつまりローマ皇帝に献

げられた都市だということで、フィリポというヘロデの息子が、ローマ皇帝によって領主

にしてもらったお礼として新しい町を建て、それを皇帝に献げた都市、それがフィリポ・

カイサリアでした。そこで様々なギリシャ・ローマの神々の神殿が建てられただけでは

なくて、そこにはローマ皇帝を祭った神殿もあった皇帝礼拝の中心地でした。そのような

異教の地、それも皇帝礼拝の地で、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うの

か」と問われたのです。マタイ福音書が書かれた時代は、まさにそのことが問われていま

した。ローマ皇帝を「主、神の子、救い主」と告白するのか、それともナザレのイエスを

そう告白するかと。そしてそこで皇帝ではなく、イエスを「主、神の子、救い主」と告白

したために、キリスト者たちは命を落とすことになりました。それを覚悟した厳しい信仰

の告白が求められました。「他の誰がどのように言おうと、わたしは、このわたしは、あ

なたを神の子、救い主と信じます」という明確な決断です。それが「わたしは信じます」

という言葉に込められているのです。そして主イエスは、わたしたちにも問いかけてこら

れるのです。「それでは、あなたはわたしを何者だと言うのか」と。

 

3.信仰は「決断」であること

 ナザレン神学校の校長をされていた石田学先生が、『日本における宣教的共同体の形

成』という使徒信条の解説書を書かれていて、その中で次のように述べています。「信仰

が共同体の中で受け継がれ告白されるものであるにもかかわらず、なぜ使徒信条が『我ら

は信ず』という複数形ではないのか。それは、この信条がもともと洗礼時の信仰告白と

して用いられてきたからである。洗礼の場で問われるのは、その本人が、信仰共同体の一

員となってその信仰的確信と希望と生活に参与することを決断するかどうかということで

ある。・・・信仰は『決断』なのである。古代教会において、キリスト教共同体に参与す

ることは、彼もしくは彼女を取り巻くマジョリティ集団の中では異質のできごとであっ

た。キリストを信じることは、むしろマジョリティ集団からの分離を意味した。地域共同

体、国家共同体、場合によっては家族共同体が伝統的宗教と習慣によって一つに結ばれて

いる場合、そうした共同体の宗教、習慣、倫理と異なる生活様式を受け入れることは、

それ自体反社会的であり得る。・・・そのような強いマジョリティ集団の宗教儀式、彼ら

が維持する価値観、娯楽、習慣、自己理解などから分離し、・・・マジョリティ集団の強

い結束力と規制から離れることは、社会生活のあらゆる面において、大きな不利益と危機

に直面することを意味していた。キリスト教という極めてマイナーな信仰共同体に参与す

るためには、個人の確固たる信念なしには不可能であった。洗礼の時の信仰告白が『わ

たしは信じる』という仕方で個人の決断を表明したことには、必然性があったのであ

る」2。わたしたちが日本という異教社会の中でキリスト者となるということは、それ相

当の覚悟を必要とします。そこでは信仰ゆえの様々な問題が生じ、摩擦が生じ、葛藤を経

験するからです。その意味で「わたしは信じます」ということは、相当の覚悟を求められ

たものとなります。しかしそれでも「わたしは信じます」と告白するのです。

 

4.多くの「わたしは信じます」に支えられての告白

 それなら「わたしたちは信じます」と言わずに、「わたしは信じます」と言った方が

良いのではないかと考えるかもしれません。しかしここでわたしたちは、やはり「わた

したちは信じます」と告白します。原文がそうなっているので、それをただ棒読みすると

いうことではなく、そこに深い意味があるからです。一言で言うなら、「わたしは信じま

す」と言うけれど、その「わたし」はそんなに強いかということです。大きな犠牲を覚悟

して信仰に入りました。そしてたくさんのリスクを支払いながら、今も信仰者として生き

ています。しかしそこでいつも絶えず「わたしは信じます」と、この世に屹立するように

して告白し続けてきただろうか。そしてこれからもそのように告白し続けることができる

だろうかと問われたら、とても難しいと思わざるをえないのではないでしょうか。いつ

も、どんな問題を前にして「わたしは信じます」と告白し続けていけるだろうかと問うな

ら、それほど強くない、むしろすぐに信仰が弱り、とても「わたしは信じます」などとは

言えない自分を見出します。だからそこで「わたしたちは信じます」と、弱い自分を共に

立ち上がらせて、一緒に信仰へと立たせてくれる信仰の友が必要なのです。


 ロッホマンというチェコスロヴァキア出身の神学者が『講解・使徒信条』の中で次のよ

うに語っています。「使徒信条の具体的な『生活の座』・・・は、洗礼の告白。・・・そ

れはコンスタンティヌス大帝以前の教会の状況において、・・・人格的な決断から生じた

ものである。即ち、過去と定められた境遇との断絶、開かれたものへと一歩、新たなる

始まり、『狭き道』、自分自身の人格的な希望と責任における決断から生じたものであ

る。・・・『我信ず』は、この実存的決断にふさわしい内容である。・・・しかも彼

は、このような信仰に自分ひとりで身を投げ出したままではない。彼は孤独なままでは

ない。・・・人はキリストの体の一部となってはじめて、正当に十分に兄弟姉妹の連帯し

た共同体の中に歩み入るのである。・・・他に代行してもらうことのできえない責任にお

いて私たちは自分の言葉を語る。しかしながら私たちは空間、時間において身近に、そし

て遠くにいる告白者の合唱の中で独自の混同しえない声でみなと声を合わせるのである。

それゆえに、『我信ず』と『我らは信ず』という両方の公式はどちらもところをえたも

のである。・・・信仰の告白において、人は一人の孤立した個人として単独に留まるもの

ではなく、その告白をもって、兄弟姉妹の包括的な共同体のうちに歩み入るのであ

る。・・・『ひとりぼっちではない』ということ・・・である」3。確かにわたしたち

は、それぞれ自分の信仰の戦いを自分自身で戦っていかなければなりません。それは誰も

代わってはもらえない厳しい戦いです。しかしそこで忘れてはならないことがある。それ

は、そこでの「わたし」は決してひとりぼっちではないということです。決して孤独な戦

いをしているのではない。そこで祈ってくれている信仰の友がいるのです。崩れそうにな

る「わたし」を、そこで支えてくれる信仰の家族がいるのです。それぞれが「わたしは信

じます」と個別の戦いを担っているわけですが、その一人一人が一緒に「わたしたちは信

じます」と告白する中で、互いの戦いを覚えて共に戦うのです。戦線から離脱しそうにな

るとき、あるいはもう「わたしは信じます」とは言えないと崩れそうになるとき、そこで

崩れないように腕を組んで支えてくれる信仰の友がいるのです。それでも力をなくして倒

れ伏してしまうときには、そこから立ち上がらせてくれる信仰の家族がいる、だからわた

したちはそれぞれに自分の「わたしは信じます」という告白を続けていくけれども、そ

れは「わたしたちは信じます」という大きな信仰の合唱の中に加えられて、支えられなが

ら、共に告白し続けているのです。ですからここで「わたしは信じます」という「わた

し」とは、個々人一人一人であるだけではなくて、まさにこのように集められた教会のこ

とです。教会が「わたしは信じます」と告白する、それが「わたしたちは信じます」とい

うことなのです。そしてそこでは、教会はまるで一人の人が告白するかのように「一つ」

となって、「わたしは信じます」と告白していくのです。「わたしは信じます」と告白す

る主体は、教会なのです。

 

5.教会の賛美の合唱を担い、支える歌い手として

 オランダの神学者であるファン・リューラーが、ラジオで語った講演の中で次のように

語りました。「キリスト教信仰の事柄においては、いつでも教会という大きな全体が重大

なのです。・・・教会こそが信じるのです。一人一人のキリスト者はいつでも同時に教会

の一員として信じています。・・・信仰者は決して自力で信じているわけではありませ

ん。彼はただ自分独りで歌っているのではありません。そうではなく、神の賛美を共に

歌っている全世界の教会の大きな合唱といっしょに歌うのです。・・・個々の歌い手は、

正しい調べを最良に持続することができます。合唱はいわば一人一人が歌うことを助ける

のです。・・・教会はメシア、すなわちキリストであるイエスに対する信仰告白を基礎と

して、その上に立っています。信仰者は教会のこの信仰告白に結びつくのです。しかしな

がら、信仰者は単に『われわれは信ず』とだけ言う必要があるというのではありませ

ん。彼はまた『われ』は信ずと言ってよいのです。・・・彼はどこまでも彼自身であり続

けます。彼が合唱を支えとしているように、合唱もまた彼を頼みとしています。・・・人

が『われは父なる神を信ず』と言うとき、彼はそのことで同時にいわば人類の列から歩

み出ています。彼は信じない他の人々と自覚的に自分を区別します。・・・このように信

仰は、必然的に常にある種の個別化へと導くのです。・・・信仰者はその個別化の中で耐

え、そしてまさにそれだからこそ、誰もが彼と同じように『われは父なる神を信ず』と告

白する、兄弟姉妹の交わりを求めるのです」4と。


 わたしは高校時代、合唱部に入っていました。小さな合唱部で、全員で21名、その中

で男子は3名だけでした。静岡で合唱コンクールの県大会が行われましたが、それでも銅

賞をもらったことがありました。一方では百数十人も部員がいる、それは見事な合唱部

もありました。その中で3位を取れたのは奇跡でしたが、その理由が面白いのです。お世

辞にも上手だったとは言えない合唱でした。けれども審査員がこう言ってくれました。

「男子の声が聞こえた」と。そしてこれが受賞の理由でした。女子18名に対して男子は

3名、一人で6名分の声を出す必要がありました。しかも男子は三つのパートに分かれて

いました。テナー、バリトン、バスで、一人で一つのパートを担いました。それでも男子

の声が聞こえたと褒められて、銅賞をもらうことができたのでした。教会も同じです。そ

れぞれが自分のパートを担っています。そしてそのみんなが声を出し合い、自分のパート

を担うことで、一つのハーモニーが生まれます。そこでは確かに自分はみんなによって支

えられます。しかしそれだけではない、自分もみんなを支えているのです。あなたがいな

ければ、神への賛美の合唱は見事なハーモニーとはならない。教会はあなたを必要と

し、あなたによって神への賛美が豊かに、そして高らかに献げられていきます。「彼が合

唱を支えとしているように、合唱もまた彼を頼みとしています」。「わたしたちは信じま

す」という神賛美が成り立つためには、あなたの「わたしは信じます」という賛美が必

要です。こうしてわたしたちは、それぞれに自分が互いによって立たせられていくだけで

はなくて、自分もみんなを立たせていく役割を果たしているのです

 

6.「わたしの神」に対する信仰の告白の言葉

 しかし最後に、もう一つ考えたいことがあります。たしかに信仰は個別のものであり、

それぞれが主体的に「わたしは信じます」と立っていくことであり、そうした一つ一つの

「わたしは信じます」が集められて、「わたしたちは信じます」という告白が成り立って

いきます。しかしわたしたちの信仰は、そんなに強いでしょうか。確かに自分が崩れそう

になるとき、傍らで腕を取って立たせてくれる信仰の友がいます。たとえ崩れても、そこ

から起き上がらせてくれる信仰の家族がいます。しかしそれでもなお、わたしたちは信仰

が弱り、崩れてしまうことがあるのです。自分は神を信頼して生きていますなどと胸を

張って言えるほど、「わたしは信じます」という信仰は確かで強いものでしょうか。自分

は神を心から信頼して生きていますとは、言えなくなるほど弱くなるときも、長い信仰生

活の中では起こるのではないでしょうか。心から神を信頼して生きていきたい、しかし時

として神を信じ切れなくなることが起こるのです。神を信頼できなくなることもあるので

す。祈っても祈っても解決されない問題を抱え込み、もがき苦しむことがあります。努力

をしてもどうすることもできない重荷につぶれそうになることもあるのです。心を痛めつ

けるほどの悲しみに、押しつぶされそうになることさえあります。どうして神は、わたし

をこんなにまで苦しみ、試み、試すのか。なぜ自分ばかりが苦労を背負い、困難に悩ま

され、病気に苦しまなければならないのかと、そこで助けてくれない神を恨み、神への信

頼が崩れていってしまうこともあります。その中で、それでもなお「わたしは信じます」

と告白することができるのでしょうか。


 『讃美歌21』132番(『讃美歌』322番)は、詩編42編をパラフレーズした讃美歌で

す。この詩人も非常に深い苦悩の中で、神に訴え、重い苦しみの中で祈っています。「涸

れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神

に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか。昼も夜も、

わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う。『お前の神はどこにいる』と」(2~4

節)。彼を苦しめる敵が絶え間なくあざけり、彼に問いかけます。「お前の神はどこにい

るのか」と。しかしこれに彼は答えられません。なぜなら自分自身も同じ問いを懐いてい

るからです。「お前の神はどこにいるのか」とは、神が存在するのかどうか分からないと

いうのではありません。存在することを前提としているのです。神はいる、しかし一体ど

こに行ってしまったのかと問うのです。こんなに苦しみ、こんなに悩み、こんなに悲惨な

のに、お前の神はどうして助けてくれないのか、一体全体そもそもお前に神の助けなどあ

るのかとあざけられているのです。しかしそのあざけりに答えることができません。自分

自身が、神に向かって、どうしてわたしを助けてくださらないのですか、あなたは一体ど

こに行ってしまったのですかと問うているからです。神が存在することは認める、しかし

その神の助けが見えないのです。それなら、いっそのこと神などいないほうがましです。

神がいないのであれば、開き直って生きていきます。しかしなまじ神がいると信じるばか

りに、その神からの助けを求め、神の守りを願ってしまう、しかしそこで肝心の神の助け

を得られないので、かえって苦しむのです。どうしてわたしの神はわたしを助けてくださ

らないのかと。


 だから詩人はうめきます。「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、なぜ呻くのか」と

(6節)。「わたしの岩、わたしの神に言おう。『なぜ、わたしをお忘れになったのか。

なぜ、わたしは敵に虐げられ、嘆きつつ歩くのか。』わたしを苦しめる者はわたしの骨を

砕き、絶え間なく嘲って言う。『お前の神はどこにいる』と」(10節)。神はわたしを

忘れてしまっているのではないかと苦しむ、だから悩みはいっそう深くなっていきます。

どうしてそこで「わたしは信じます」などと言うことができるのでしょうか。うなだれる

ばかりなのです。うめくばかりなのです。しかし詩人は、そこで立ち止まりません。こう

続けます。「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ。なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたし

はなお、告白しよう。『御顔こそ、わたしの救い』と」(6節)。「なぜうなだれるの

か、わたしの魂よ。なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう。『御顔

こそ、わたしの救い』と。わたしの神よ」(12節)。ここでどうして苦境の中で助けて

もくれない神を「待ち望む」ことができるのでしょうか。しかしそれでもなお神を待ち望

むことができるのです。なぜなら、そこで訴え、ひたすらに祈り求め、うめいているの

は、「わたしの神」だからです。他の誰でもない、また他の誰のためでもない「わたしの

神」なのです。だからこの方が「わたしの救い」であり、「わたしの岩」なのです(10

節)。今は、その「わたしの神」からの助けの御手は見えないかもしれません。支えの働

きは見えないかもしれません。しかしそこでもなおわたしたちは、神を信頼し続けてい

くことができます。なぜならそこでわたしたちが訴え、祈り求め、うめいているのは、

「わたしの神」だからです。他の誰でもない「わたしの神」だからです。その「わたしの

神」にうめいているのです。祈っているのです。この方が答えてくださらないはずはない

のです。なぜなら、その方は「わたしの神」そして「あなたの神」だからです。その「わ

たしの神」と仰いでいく中で、どのような苦難の中にあっても、なお「わたしは信じま

す」と立っていくことができ、また立たされていくのです。そしてそこでわたしたちは

共々に互いを助け合いながら、そして一緒に腕を組みながら「わたしたちは信じます」と

立ち上がっていくのです。信条は、このようにわたしたちを、それぞれに「わたしは信じ

ます」と、信仰へと立たせていく言葉であり、またそこでわたしたちを一つにして、「わ

たしたちは信じます」と一緒に神への賛美へと立ち上がらせていく信仰の言葉なのです。

 

7.「信じる」とは信頼すること

 最後の、「信じる」とはどういうことかを考えていきましょう。旧約聖書において信仰

とは、「神に対する信頼」であり、「神の前に固く立ち、どのような時にも耐え忍んで、

神に従う」ということです5。すなわち「主に依拠し、信頼し、期待すること、主に堅く

結びつき、主を待ち望み、主を我らの盾およびやぐらとして、また避けどころとするこ

と、神への不動の信頼」です6。そこで大軍が押し寄せて来て怯えるアハズに対して、イ

ザヤは「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」と呼びかけます(イザヤ

7章4節)。また「お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに

信頼していることにこそ力がある」とも語りました(同30章15節)。そこで「堅固な思

いを、あなたは平和に守られる。あなたに信頼するゆえに、平和に。どこまでも主に信

頼せよ、主こそはとこしえの岩」と告白され(同26章3、4節)、「見よ、わたしを救

われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌、わたしの救い

となってくださった」と賛美されていきます(同12章2節)。さらに「信じる」(ヘーミ

ン)とは、「誰かを、何かを確かなものたらしめること、もしくは確固たるもの、信頼に

値するものとみなすこと」でもあります7。そこで先のアハズに対する宣告においても、

「信じなければ、あなたがたは確かにされない」と言われます(同7章9節)。アーメン

という言葉は、このヘーミンに由来し、ここでは「アーメンとしない者は、アーメンとさ

れない」と言われているのです。こうして旧約聖書では「信仰」とは、「人間にまさって

無限に偉大で力ある神、人間の知恵と力がもはや役立たぬ場合にさえも人間を助けうる神

によりすがることであり、神の偉大さ、慈しみ、知恵を認めて、神の意志に服し、信頼と

希望をもって神に頼り、また従うことであり、さらに特に苦難と危急の時にあたって神に

就き、神にとどまること」を意味しました。それは「人間が謙遜と信頼、自己放棄と従

順、思いと行いによって、自己のすべてを神にまかせること」に他なりません8。


 それに対して新約聖書の「信仰」という言葉ピスティスには、「真実あるいは信頼」と

いう意味が前面に出ており、「したがって神を信じるものとは、真実に神に結ばれ、全存

在をもって、神に従っているものをさしている」とされます。つまり「聖書における神へ

の信仰は、『わたしは有って有る者』(出3章14節)と言って、自己の存在を人間に向

かって主張される神に対して、人間が『信じます』(マルコ9章24節)と言って応答する

こと」であり、それは「神の自己啓示に対して、固く立って動かされることなく信じる態

度」に他なりません9(ローマ4章20節)。そしてそれは、「啓示を通して行われる神の

語りかけに対する人間の応答」として生み出されるものでした10。そこで新約聖書におい

て、「信仰」とは、「まずもってイエス・キリストの福音ないしはケリュグマを受け入れ

ることであり、彼を主としてあがめ、公言し、ほめたたえることであり、また彼と人格的

関係を結びかつ保持すること」とされます11。新約聖書において用いられている「信じ

る・信仰」というギリシャ語の言葉には、「信頼する・頼りにする・信用する・当てに

する・委ねる・任せる」という意味がありますから、もちろん新約聖書においても、旧約

聖書と同様に、神に信頼し、神に頼り、神に服従するという意味が含みこまれており、そ

の意味で旧約聖書を継続しています。しかし新約聖書には、旧約聖書との違いがあり、そ

れは「キリストとの関わり合い」という新しい次元がそこで展開されているということに

あります。「旧約聖書は、神が、人類の救済の約束に真実であったことを一貫して述べ、

新約聖書は、その神の約束がイエス・キリストにおいて成就したことを告げ」ます。そし

て「この神の真実に対して人間の側の誠実さをもって応えるのが、聖書における信仰」で

す12。そしてパウロにおいても信仰とは、啓示において遭遇する神の求めに対する全身全

霊をかけた人間の応答です。そしてこの神の啓示は、イエス・キリストにおいて表されま

した。そこで信仰の対象はイエス・キリストであり、まことの信仰とは「イエス・キリス

トへの信仰」となります。もちろんパウロにとっても信仰とは、「単なる知的認識や理解

ではなく、人間全体に関わることであり、人間がその全存在を挙げて、神に依り頼み、自

己を委ねること」ですが、同時にそれは「キリストに対して全幅の信頼をおき、彼に自己

を委ね、預け切る」ことでもありました。つまりそれは「キリストに対する全面的自己

委託」と言い表すことができる事態であり、そこには主に対する「従順」が含まれます

13。つまり「信仰による従順」です(ローマ1章5節、16章26節)。このようにパウロ

にとって、信仰とは「キリストとの人格的関係」であり、それは「キリストへの全面的自

己委託また従順」として表されるもの、つまり「キリストへの帰依」とも言うべき事態だ

と言うことができるのです14。そして信条は、わたしたちをこのように主に対する人格的

な信頼へと寄り頼ませていき、それぞれに「わたしは信じます」と立たせていく言葉な

のであり、それによってそこに集うわたしたち相互が互いに信頼し合うことで「一つ」と

して、「わたしたちは信じます」と一緒に神への賛美へと立ち上がらせていく、信仰の言

葉なのです。

 

 

 

1 「我信ず、一つの神・父・全能者、天と地、見ゆると見えざる万物を造りし主を。」

 日本ハリストス正教会教団、『主日奉事式』、1994年、186頁。日本カトリック司教

 協議会認可(2004年)のニカイア信条は、「わたしは信じます。云々」となってい

 る。

2 石田学、『日本における宣教的共同体の形成』、2004年、新教出版社、31~32頁

3 ロッホマン、『講解・使徒信条』、1996年、ヨルダン社、50~52頁

4 ファン・リューラー、『キリスト者は何を信じているか』、2000年、教文館、11~15

 頁

5 東京神学大学神学会編、『旧約聖書神学事典』、1983年、教文館、247~248頁

6 神学事典翻訳編集委員会編、『ベイカー神学事典』、1986年、聖書図書刊行会、231頁

7 旧約新約聖書大事典編集委員会、『旧約新約聖書大事典』、1989年、教文館、632頁

8 堀田雄康、「パウロ神学における『キリストへの帰依』としての『信仰』」、

 ネラン編『信ずること』、新教出版社、60頁

9 東京神学大学神学会編、『旧約聖書神学事典』、1983年、教文館、248頁

10 堀田、前掲書、60頁

11 堀田、同上、60~61頁

12 東京神学大学新約聖書神学事典編集委員会編、『新約聖書神学事典』、1991年、

 教文館、299頁

13 堀田、前掲書、77頁

14 堀田、同上、84頁