第3講 神だけを「自分の神」とする愛の言葉

「わたしたちは何を信じるのか」

-信仰の基礎を見つめる二年間(ニカイア信条に学ぶ)

 

第3講:神だけを『自分の神』とする愛の言葉(申命記6章4~5節、1月15日)

 

【今週のキーワード:妬む神】

 イスラエルに「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と命じられ

た神は、彼らを「エジプトの国、奴隷の家から導き出した神」でした。だから彼らに向

かって「わたしは主、あなたの神」と呼びかけることができたのです。他でもない、この

方が命を賭けて彼らを奴隷から救い出し、命へと自由へと導き出し、ご自分の命を賭け

て彼らを愛された方だから、彼らに対して「わたしは主、あなたの神」と呼びかけるので

す。イスラエルは、神を愛し、神に仕えることを一方的に命令されたのではなくて、その

前に神が彼らを愛し、仕えてくださったのでした。そこで彼らに向けられた愛は、ひたむ

きな愛でした。「わたしは熱情の神である」と神は語ります。「熱情」とは「妬み」、そ

れも激情に駆られた嫉妬です。神はご自分のことを「妬む神」と言い、ご自分の愛が嫉妬

に狂うほどの愛であることを明らかにします。愛は排他的です。自分と相手との間に、別

の存在が入るのを許しません。相手が別の異性に心を魅かれ、思いを向けることは耐え

がたいことで、嫉妬に狂います。それが「妬みの神」ということです。それほどの愛で、

神はわたしたちを愛し、「わたしは主、あなたの神」と呼びかけてこられるのです。そこ

で求められることが、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは

心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」ということなの

です。

 

1.「唯一の神」を信じること

 前回は、ニカイア信条の最初の言葉、「わたしたちは信じます」について考えました。

そうして「信じます」と言って、何を信じるかというと、それは「唯一の神」です。わた

したちが慣れ親しんでいる使徒信条では、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」

と告白し、「わたしは信じます」の次は「天地の造り主」となっています。しかし実は使

徒信条も原文では、すぐ次に来るのは「天地の造り主」ではなくて「神」で、「わたしは

神を信じる」と告白します。しかし語順どおりに、一つ一つを切って訳すよりも、全体を

まとめて訳した方がこなれた日本語となり、言い淀むことなく告白できるということで、

使徒信条は「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白します。そこでニカイア

信条の翻訳の中にも同じように、「天と地、すべての見えるものと見えないものの造り

主、全能の父である唯一の神を、私は信じます」と訳すものもあります1。今回はギリ

シャ語原文から翻訳しましたが、そこで心がけたことは、こなれた日本語にすることよ

りも、原文の雰囲気というか香りを少しでも嗅ぎ取ることができるようにするということ

でした。そこでなるべく原文の語順のとおりに、あえて直訳しました。日本語としては読

みにくいかもしれませんが、原文ではこうなっているということを知ることができるよう

に訳してみました。しかしわたしの訳以上に直訳しているのは、前回紹介した日本ハリス

トス正教会のもので、こうなっています。「我信ず、一つの神・父・全能者、天と地、見

ゆると見えざる万物を造りし主を」2。ぶっきらぼうなくらいそのまま直訳しています

が、原文はまさにこの語順なのです。「わたしたちは信じる」と立ち上がって、真っ先に

告白するのは「唯一の神」、つまり「一人の神」を信じることについてです。ここで一緒

に考えたいのは、この「唯一の神」についてです。

 

 キリスト者であれば誰もが「神はただお一人」だと信じています。わたしの祖母がよく

歌っていた歌に、こんな賛美がありました。「まことの神さま、ただ一人、皆さん早く信

じましょう」。神はただ一人である、これはキリスト者にとっては自明のことだから、

もっと先に進みましょうとお考えになるかもしれません。キリスト教は唯一神教で、「唯

一の神」つまり「ただ一人の神」を神としている、それは事実ですが、それではその信仰

に生きているはずのわたしたちは、本当にこの「唯一の神」を信じているでしょうか。つ

まり本当に神を「ただお一人」の方として信じているのでしょうか。そもそもそこで言っ

ている「神」とは誰でしょうか。あるいはもっと言うなら、そこで何を言っているので

しょうか。わたしたちは皆「神」を口にしますが、そこで本当は何を信じているので

しょうか。そしてその神を、「唯一の神」として信じるとは、どういうことを意味するの

でしょうか。ずいぶん以前のことですが、スペインで大きな地震があり、大きな被害が

出たそうです。そこで甚大な被害が出た、しかしそれで終わりませんでした。その災害を

契機として、多くの人が信仰を離れ、あるいは捨てたと言われています。どのくらいの人

数かは分かりません。しかしそこでの被害と惨状を目の前にして、多くの人がもはや神を

信じられなくなってしまったというのです。ここで言う「神」とは、日本のような多神教

の世界ではないキリスト教世界のことですから、それは他の誰でもないキリスト教の神、

ここでわたしたちが告白している「唯一の神」です。その災害を境にして、この神をもは

や信じられなくなってしまったというのです。しかしこれはなにも大地震だけではありま

せん。それ以外にも津波とか火山の噴火とか、河川の氾濫、洪水、ハリケーンや台風、竜

巻、集中豪雨といった様々な大災害に襲われるわけですが、そこで甚大な被害が出る度

に、それこそ詩編42編にあるように、「お前の神はどこにいる」と繰り返し問われてき

ました(4節)。

 

2.ブラックボックスの中の「神」

 よく注意して聞いていただきたいことは、そこで神を信じられなくなった人たちが不信

仰だとか、信仰が弱い人たちだと、「その人たちの信仰」を問題にしているわけではない

という点です。そうではなく、もしかしたらわたしたちも同じではないかと、自らを省み

て考えてほしいのです。その人たちの信仰は小さかったから信仰を捨てたのだと、その人

たちを責めるわけではなくて、わたしたちも同じような問題に直面したら、同じことにな

りはしないかと自分自身の信仰を問うてほしいのです。そのことは、広島の原爆やアウ

シュビッツについても言われたことでした。このような悲惨な現実を見て、我々はもはや

神を信じ続けることはできないと。しかしそこで考えてほしいことは、それではこれまで

自分が信じていると考えていた「神」とは、そもそも何だったかということなのです。自

分が期待した「神」、自分が望む「神」、たしかにそうした「神」は信じられなくなる

かもしれません。しかしそれが、実は本当にまことの神ご自身だったのか、わたしたち

は「神」を信じていると言いながら、それは本当に生けるまことの神ご自身だったの

か、そのことが問われるのです。実は神でもなんでもない、自分が考え出した「神」、自

分が求めてきた「神」、それを「神」として信じてきただけだったのではないか。ここに

箱があります。これには中身が入っていて、空箱ではありません。そしてこの箱の外には

「神」と書いてあります。これと同じようにわたしたちは「神」を信じてきたということ

ができないでしょうか。それはまるでブラックボックスを信じる信仰なのかもしれない。

つまり中身が何であるかを確かめることなく、外側に「神」と書いてあるから、それを

「神」だと言っているのです。しかし人によって、その中身は違います。中身は違うの

に、それぞれが同じ言葉を使って、それを「神」と信じている。しかし問題は、その中に

何が入っているかです。わたしたちはそれぞれに「神」と言いながら、実はそこで人格を

持たれた生けるまことの神ご自身を信じているというよりも、実は自分が期待し、自分

が求め、自分が願うものを「神」として信じてきたのではないか。だからそれは「誰」と

いうよりも、「何」と問わざるをえないのです。人格としての神を人格的に信じていると

いうよりも、相手は誰でも何でも良い、自分の願望を満たし、自分の祈りを聞き、自分

が求めるものを願いどおりにちゃんと与えてくれさえするなら、何でも良い、それを

「神」と呼んでいるのです。さてそこには、何が入っているのでしょうか。

 

 申命記6章4、5節では、次のように呼びかけられています。「聞け、イスラエルよ。

我らの神、主は唯一である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの

神、主を愛しなさい」。そこでイスラエルには十戒が与えられました。そしてそこで最初

に求められたことは、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」とい

うことでした(5章7節)。注意していただきたいのは、ここでこの「唯一の神」だけを

信じるようにと求められたのは、神の民イスラエルであるということです。多神教の世界

に生きる他の民ではない、あるいはまた、まだこの「唯一の神」、生ける神を知らず、ま

ことの神を信じていない人々に向かって呼びかけられたものでもない、もうすでにこの

「唯一の神」の民とされたイスラエルに向かって、この「唯一の神」だけをあなたの神と

しなさいと求められているのです。そこで呼びかける方は、ご自分を「わたしは主、あな

たの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と言われます(同

6節)。イスラエルを奴隷から救い出して自由へと解放した救いの神、だからこのわたし

を「あなたの神」として信じなさいと呼びかけられたのです。イスラエルはこの神の呼び

かけに応えたでしょうか。そうではなかったというのが旧約聖書で知るイスラエルの歴

史でした。それはこのすぐ後、十戒を与えられた直後にもう起きます。シナイ山でモーセ

が神から十戒を授けられている間、山のふもとでモーセの帰りを待ち続けていたイスラエ

ルの民は、待てど暮らせどモーセが戻ってこない。そこで何を始めたか。出エジプト記

32章1~6節にあるとおり、彼らは集めた金で「若い雄牛の鋳造」を作り、それに向

かって、こう言いました。「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上っ

たあなたの神々だ」と(4節)。ここでよく考えていただきたいことは、彼らはさっさと

別の神に乗り換えたわけではないということです。彼らは依然として、これまで信じてき

た自分たちの神を「神」として拝んでいました。それはイスラエルの神、イスラエルをエ

ジプトから救い出してくださった神です。けれどもそれは偶像でした。自分はまことの神

を信じていると考えて、いつの間にかそれを偶像と取り替えて拝んでいた。別の神に鞍替

えしたつもりはありませんでした。どこまでも自分たちをエジプトから救い出してくだ

さったイスラエルの神なのです。しかしそこで彼らが信じ、拝んだのは、そのまことの神

ご自身ではなく、彼らが造り上げた偶像にすぎなかった。それが「金の子牛」でした。

そしてそれはイスラエルの歴史の中で繰り返されました。イスラエルが王国を形成した

後、分裂し、北イスラエル王国と南ユダ王国として存続していきます。北の十部族がダビ

デ王国から分裂したとき、北王国を樹立した最初の王ヤロブアムは、同じことをしまし

た。北王国の住民が南王国にあるエルサレムの神殿にお参りすることで、民心が離れてし

まうことを恐れたヤロブアムは、北王国の北端にあったダンと南端にあったベテルに、

「金の子牛」像を設置して、こう呼びかけました。「あなたたちはもはやエルサレムに上

る必要はない。見よ、イスラエルよ、これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの

神である」と(列王記上12章28節)。

 

3.まことの神を偶像にすり換える心

 彼らはイスラエルの神を、どうして「金の子牛」の像になぞらえたのでしょうか。まさ

にそこに彼らの神に対する信仰、「神」についての考え方がはっきりと表されていまし

た。つまりこの箱の中身です。「金の子牛」、その正体はこの世の繁栄と栄華であり、地

上の成功と幸せであり、具体的にはそれをもたらすこの世の富、お金でした。当時の古代

オリエント全体に、雄牛に対する信仰というものがありました。当初、牛は見えない神

を乗せる玉座、神の使いと考えられていたようですが、それが次第に神そのものを表すよ

うになり、雄牛信仰となって広がっていきました。雄牛は生殖や豊穣、つまりはこの世の

欲望を象徴するもの、分かりやすく言えば性とお金です。それが雄牛だった。つまり彼ら

がイスラエルの神と称して信じた「神」とは、実は自分たちの欲望そのものであり、それ

を満足させてくれる存在、そのように彼らに仕える僕、それが彼らの信じる「神」で、そ

れを象徴したのが「金の子牛」でした。さっきの箱を見せましょう。ここには「神」と

書いてあり、みんなこの「神」を信じています。しかしその中身を確かめることはない。

しかしそれは生ける神ご自身だったのではなく、もしかしたらこれが入っていたのではな

いでしょうか。「お金」です。違う言い方をするなら、「わたしたちは神を信じている」

と言う、その「神」は、はっきり言って誰でも良いのです。相手がどんな神であるかはど

うでもいい。要は、自分の願いをかなえてくれ、自分の祈りを聞いてくれ、自分の思い通

りにしてくれる相手であれば、何でもいいのです。日本人の宗教観というのはそういうも

のです。初詣に行くとき、そこで祭られている神さまがどのような祭神で、そのご神体は

何で、その神社にはどのような由緒があるかということをきちんと確認して拝みに行くわ

けではありません。どんな神さまかは知らないのです。効能で選ぶからです。ご利益で選

ぶ。安産の神さま、交通安全の神さま、商売繁盛の神さま、それぞれの効能で神さまを

選択し、そこにお参りに行きます。そこでは自分が拝む相手が誰であるかは問題ではな

く、自分の欲しいご利益をもたらしてくれる相手かどうかが問題です。自分の要求を満た

してくれるものであれば何でも良い、それを「神」と呼んで信じるのです。だから「鰯の

頭も信心」と言われるのです。しかし事はやっかいで、それはまことの神に出会い、その

方を神としているはずのイスラエルも同じでした。自分でも知らないうちに、まことの神

ではないものを「神」として拝み、信じた、それが「金の子牛」でした。しかしこのイス

ラエルの姿を、わたしたちは笑えるでしょうか。試練や問題に直面するたびに、ぐらつく

ような信仰というのは、結局同じことではないのか。わたしたちも他人のご利益信仰を

笑うことはできないのです。わたしたちは、本当に生けるまことの神を神として仰ぎ、信

じ、拝んでいるのでしょうか。

 

 主イエスは「山上の説教」の中で、「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一

方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである」と言っ

て、こう続けられました。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と(マタ

イ6章24節)。ここで「富」と訳されている言葉はマモンで、ここでは二人の神が対比

されています。まことの神とマモンの神、そしてマモンとはこの世の富です。あなたはそ

のどちらに仕えているか、どちらを「あなたの神」とするのかと。両方欲しいけれど、そ

の両方に仕えることはできない。「唯一の神を信じる」ということで求められているの

は、まさにこのことです。神とマモン、そのどちらを「あなたの神」とするのか。だから

イスラエルに向かって、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一である。あなたは心

を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と、そして「あな

たには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と求められたのです。わたしたち

は、二人の神に兼ね仕えることはできません。しかしまことの神とこの世の富、そのど

ちらをも「神」として仕えてきました。いや正確に言えば、まことの神をマモンにすり代

えて信じてきた。それが「金の子牛」でした。しかしここで問われるのです。そのどちら

を「あなたの神」とするか、はっきり選びなさいと。21節では、「あなたの富のあると

ころに、あなたの心もある」と言われます。富とは、何もお金とは限りません。自分が一

番大切にしているものです。自分の心がおかれている、いや自分の心を一杯にしているも

のです。それは人によって違います。ある人にとってそれは、やりがいのある仕事かもし

れませんし、あるいは実現を目指している夢かもしれません。ある人にとっては自分が理

想とする家庭、ある人にとっては自分の夢を託している子供、ある人にとってはかわいく

て仕方のない孫かもしれません。ある人にとっては自分の楽しみや趣味、あるいは絶対に

失いたくないと考える恋人かもしれません。いずれにしても、あなたの心を一杯にし、生

活の中心となっているもの、それがマモンです。それがあなたの心の中で、神よりも第一

となってしまっている。「唯一の神を信じる」とは、マモン、この世の何かを「あなたの

神」とするのではなくて、生活の中心にするのでもないということです。そうではなく

て、生けるまことの神だけを神として選び取り、その神に信頼して生きていくということ

です。わたしたちはこれまで、何を「あなたの神」としてきたのでしょうか。「神」だと

思って信じてきたのは、実は自分の願望であり、期待であり、思いであって、つまりそれ

は自分自身だったということはなかったでしょうか。それを聖書は偶像と言うのです。偶

像は外にあるものではなく、わたしたちの心の中にあります。世にある偶像は、ただそれ

を形に表しただけで、本当の偶像は自分自身、自分の心なのです。そしてこのように結局

は自分に寄り頼んで生きていこうとすること、それが偶像礼拝なのです。大きな問題に直

面するたびに、人々が「神」への信仰をなくしてしまうのはどうしてでしょうか。そこで

信じてきた「神」が、まことの神ではなかったからということはできないでしょうか。

そこで信じてきたのは、自分が期待する「神」、自分の願いどおりの「神」にすぎな

かった、だからその期待を裏切る「神」をもはや信じることはできなくなるのです。そし

てそれは、わたしたち一人一人が繰り返し問われてくることではないでしょうか。わたし

たちは、何を「神」としてきたのでしょうか。

 

4.「あなたの神」と呼びかける神

 聖書が啓示する「生けるまことの神」とは、どのようなお方かということは、この信条

のこの後の項目でこれから詳しく考えることになります。信条は、この方が「唯一の神、

全能の父、天と地、見えるものと見えないものすベてのものの造り主」と告白していきま

す。わたしたちが神として信じるべき方とは、どのような方であるかを、これからの学び

で深めていきたいと思います。しかしそれらの信仰の前提に、「わたしは主、あなたの

神」という、神ご自身の方からの呼びかけがあることを覚えていただきたいと思います。

全能の神であるとか、父なる神であるとか、天地の創り主であると信じる以前に、この

神がわたしたちに向かって、「わたしは主、あなたの神」と呼びかけてくださる神なので

す。前回わたしたちは、詩編42編を考えました。そこでは様々な苦境のただ中にあって

も、なお「わたしの神」と呼ぶことができる、そこに救いがあることを考えました。苦

難のただ中で神への不信に陥りながら、しかしそれでもなおそこで神に向かって「わたし

の神」と呼びかけるところで、神への信仰へと立ち上げられていくと学びました。しかし

このようにわたしたちが、神を「わたしの神」と呼びかける前に、それよりも先に神の

方からわたしたちに対して、「わたしは主、あなたの神」と呼びかけてくださっているこ

とに気づいてください。

 

 ここでイスラエルに「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あな

たはいかなる像も造ってはならない」と厳しく命じられる神とは、彼らを「エジプトの

国、奴隷の家から導き出した神」でした。だから彼らに向かって「わたしは主、あなたの

神」と呼びかけることができたのです。他でもない、この方が命を賭けて彼らを奴隷から

救い出し、命へと、自由へと導き出してくださった。そうしてご自身の命を賭けて彼らを

愛された方だから、彼らに対して「わたしは主、あなたの神」と呼びかけることができた

のでした。ここでイスラエルは神の奴隷とされて、ただ一方的に神を愛せ、神に仕えよと

命令されたのではなくて、その前に神が彼らを愛し、仕えてくださった、そうして彼らを

ご自分の民、神の子としてくださったからこそ、他でもないその彼らに対して、そのよう

に求めることができるのでした。そしてそこで彼らに向けられた愛とは、ひたむきな愛で

した。申命記5章にある十戒では、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはな

らない。あなたはいかなる像も造ってはならない」と命じられ、「わたしは主、あなたの

神」と呼びかけてこられた後に、こういう言葉が続きます。「わたしは熱情の神である」

と。新共同訳は「熱情」と品よく訳しましたが、それは「妬み」という言葉です。しかも

激情に駆られた嫉妬です。ここで神はご自分のことを「妬む神」と言っておられるので

す。「妬み」とは決して良い言葉ではありません。あの人は妬み深いと言うことは、褒め

言葉ではありません。しかしこのような言葉を使ってまでも、神がイスラエルに対するご

自身の関わり、いや、わたしたちへの思いを吐露されたのです。「わたしは妬むほど、あ

なたを愛している」と。神がわたしたちに対して、「わたしは主、あなたの神」と呼びか

けられるとき、それは通り一遍の社交辞令で言われているのではありません。居たたまれ

ないほどの熱い想いをもって、わたしたちを見つめ、わたしたちに向かい合ってくださっ

ているということです。「わたし、このわたしだけが、あなたの神」だと。だからご自分

以外には、わたしたちが「わたしの神」と呼ぶ存在があってはならないのです。それは神

には耐えられない、そうであれば、神は妬みに駆られ、嫉妬に苦しむからなのです。

 

5.嫉妬するほどの激しい愛で

 これほどに強くまた熱い神の想いというのは、嫉妬心で苦しんだ経験のない方には分

かりにくいものだと思います。自分より実力のある人を妬むとか、同僚が出世するのを妬

むということとは違う。一人の人に対する本気の愛です。一人の人を本気で愛したら、嫉

妬するのです。その人が別の異性と親しくし、仲良くしている姿を見て、その人は愛の大

きな人だなどと思う人はありません。嫉妬の思いが湧きあがって苦しむのです。「愛は死

のように強く、熱情は陰府のように酷い。火花を散らして燃える炎。大水も愛を消すこと

はできない。洪水もそれを押し流すことはでき」ません(雅歌8章6、7節)。本気の

愛は、嫉妬する愛です。それは狂おしいほどに相手を愛することで、逆にそれほどではな

いとしたら、それはまだ本気の愛ではありません。「神は愛である」という言葉を(1

ヨハネ4章8節)、わたしたちはあまりにも観念的に理解しています。まるできれいに

パッケージされた「愛」、ショーウインドーに飾られた理想的な「愛」として神の愛を理

解しています。しかしここで神は、ご自分の愛が嫉妬に狂うほど激情に駆られた愛である

ことを明らかにされます。だからここでヨハネが「愛することのない者は神を知りませ

ん」と続けるとき、そのような意味で理解するべきでもあるのです。またイザヤを通して

神が「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と呼びかけ

てくださるとき(イザヤ43章4節、新改訳)、それも同じです。愛は排他的なものです。

一人の人を本気で愛したことがあれば分かります。それは自分と相手との間に、別の存在

が入ることを決して許しません。相手が別の異性に心を魅かれ、思いを向けることは耐え

がたいことです。嫉妬に狂うのです。それが「妬みの神」ということです。それほどの愛

で、神はわたしたちを愛してくださり、だからそこで「わたしは主、あなたの神」と呼び

かけてこられるのです。そこで求められるのです。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主

は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を

愛しなさい」と(申命記6章4、5節)。だから偶像を嫌うのです。偶像礼拝を徹底的に

排除するのです。なぜならこの方だけが「あなたの神」であり、わたしたちにとってはそ

の方だけが「わたしの神」だからです。それがご自分を「あなたの神」と紹介し、わたし

たちがその方を「わたしの神」と呼びかけることを求めておられる、その神とわたしたち

との関係です。神は狂おしいほどにわたしを慕い求め、愛しておられる。そして妬むほど

に、わたしからの愛を求めておられる。それほど神は、わたしとの関係において、愛に苦

しむ神なのです。

 

 詩編50編15節では、次のように呼びかけられます。「悩みの日にわたしを呼べ、わた

しはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」と(口語訳)。「唯一の神を信

じる」とは、わたしたちに対して「あなたの神」だと呼びかけてくださる方だけを「わた

しの神」として信頼し、依り頼んで生きていくことです。その神が「悩みの日にわたしを

呼べ」と、ご自分を「わたしの神」と呼べと求めてくださいました。なぜなら、この方だ

けが、「あなたの神」、わたしたちの神だからです。詩編118編を讃美歌21-152番で賛

美します。そこで主はわたしたちに、こう約束してくださいます。「悩みせまるときに、

主のみ名を呼べば、主は祈りに応え、われを救いたもう」と(2節)。「唯一の神を信じ

る」とは、悩みのただ中にあって呼び求める者の祈りを聞き、それにふさわしい助けと守

りを与えると約束してくださる方を信頼することです。そしてこの神だけを信頼しなが

ら、依り頼んで生きていくことです。ですからわたしたちも、この神だけを「わたしの

神」と呼び、この方の助けと救いに依り頼んで生きていくのです。ご自分を「あなたの

神」と呼んでくださる、「わたしの神」に。それが「唯一の神を信じる」ということなの

です。

 

 


1日本福音ルーテル教会信条集専門委員会、『一致信条集』、1982、聖文舎、23頁;日

 本福音ルーテル教会・日本ルーテル教団共同式文委員会、『ルーテル教会式文』、

 1996、30頁;東京基督教研究所、『基本信条』、1946、新教出版社、11~12頁;

 H.ベッテンソン、『キリスト教文書資料集』1983、聖書図書刊行会、55頁。

 参照:日本基督教協議会文書事業部、『信条集』前篇、1982、新教出版社、6頁。

2 日本ハリストス正教会教団、『主日報事式』、1994、186頁