第1講 「自分」とは誰かを明らかにする言葉

「わたしたちは何を信じるのか」

-信仰の基礎を見つめる二年間(ニカイア信条に学ぶ)

 

第1講:「自分」とは誰かを明らかにする言葉(ローマ6章3~11節、2012年1月1日)

 

【今週のキーワード:カテケーシスと洗礼信条】

 『使徒信条』や『ニカイア・コンスタンティノポリス信条』は、歴史の中で変遷しなが

ら今日の形に整えられていったものでした。『使徒信条』が主に西方教会に広がり、『ニ

カイア・コンスタンティノポリス信条』が最初は東方教会を中心に広がっていったという

違いや、神学論争を経て会議によって制定されたという違いはありますが、どちらも礼拝

で使用され、告白されてきたものでした。何よりも大切な点は、どちらも元々はある教会

の洗礼と礼拝において実際に使用されていた「洗礼信条」が原型となっていることです。

『使徒信条』はローマ教会、『ニカイア・コンスタンティノポリス信条』はカイザリアま

たはエルサレム教会で用いられた信条をその原型とします。古代教会では、洗礼を志願す

る者にカテケーシスという洗礼準備教育を課しました。それは3年にも及ぶ期間「御言葉

の礼拝」(礼拝の前半部分)に出席して、その生活態度を試験された後、復活節の直前の

40日間、集中してなされたもので、そこで洗礼を授けられることが認められた者たち

に、教会の信仰をまとめた信仰の定式を教え、それを信じることを表明することで、洗礼

が授けられていきました。それが「洗礼信条」で、元々は質問形式だったようですが、次

第に宣言形式へと整えられていきました。わたしたちは、『使徒信条』や『ニカイア・コ

ンスタンティノポリス信条』を告白することで、代々の教会とその信仰に連なっていくの

です。

 

1.「あなたは誰か」との問い

「あなたは誰ですか」、そう問われて、どのように答えますか。色々な答え方があるで

しょう。まずは自分の氏名を名乗り、年齢を言い、出身地を語ります。自分の職業を語

り、今ついている仕事の地位やポジションを述べます。あるいは最終学歴や年収、趣味と

いったことを語るかもしれません。しかしそれが「あなた」でしょうか。もちろん確かに

それもあなたです。しかしそれは単にあなたの一部であって、あなた自身ではありませ

ん。職業は変わることもありますし、仕事のポジションやそれに伴う収入も変わります。

年齢も、場合によっては氏名さえ変わることもあります。「あなたは誰か」、その問い

に、どのように答えたらよいのでしょうか。これは自分のアイデンティティに関わる問題

です。「自分」とは一体、誰なのでしょう。何者なのでしょうか。今日から新しい一年が

始められました。そして今日から、朝の礼拝でも新しい学びを開始することになります。

この後、告白する『ニカイア・コンスタンティノポリス信条』の学びです。どうしてこん

な信条などというものの学びをするのか、それもどうして慣れ親しんでいる使徒信条では

ないのか、そうしたことの理由はこれからふさわしい時にお話ししたいと思います。ただ

今日から始める新しい学びは、「あなたは誰か」という問いに自分で答えられるようにす

るためのものです。自分が本当は誰であるかを、自分自身ではっきりと了解し、そこに自

分がしっかりと立っていくようになるための学び、自分が誰であるかを自分自身が十分に

理解するための学びです。


 新年早々、いきなり何を話し始めるのか、自分が誰であるかは、他の誰でもない自分

自身が一番良く承知している、それなのにどうしてそのように問うのか、いぶかしく思わ

れた方もおられるかもしれません。しかし果たしてそうでしょうか。あなたは自分が誰で

あり、何であるかを、本当によくわきまえているでしょうか。先ほどの答え方、自己理解

は、自分についてのほんの一面でしかありません。そして実はそのような自己理解に基づ

いて毎日を生きている、そこにわたしたちの問題があるのです。つまりこの世が与える物

差しで自分を見つめ、自分を理解し、自分を評価する、そうした誤った自己認識の中で生

きているのです。この世の価値基準や考えに基づいて、毎日を生きている、だから傲慢に

思い、人を見下すこともあれば、自分は駄目だと卑下し、自己憐憫に陥ることもある。

しかしそれはそもそも自分をはかる物差しが間違っているからです。間違った物差しで自

分をはかり、評価している。しかしそれは他人をはかる物差しでもあります。そうして自

分をも他人をも惨めにしていく、間違った物差しから解放されて、本当の自分を見出し、

本当の自分を知る、そのための学びがこれから礼拝でしていく信条の学びです。何かこむ

ずかしいことを勉強することが目的ではありません。たくさん教理を勉強して知的満足を

味わうためのものでもありません。そうではなくて、あなたが「自分は誰であるか」を正

しく知り、その正しい理解に生きるようになるための学びなのです。

 

2.洗礼を受けて神の子とされた「キリスト者」であること

 改めて問いますが、「あなたは誰ですか」。その問いにどのように答えますか。今週か

ら祈祷会でも同時並行して『ハイデルベルク教理問答』の学びを始めます。教理問答、カ

テキズムと呼ばれるものは古代の教会で実践されていたカテケーシス、それは洗礼を受け

ることを希望し、志願する人を信仰に導くための教育ですが、それに基づくものです。宗

教改革の時代にその必要が覚えられて復興され、その最初期のカテキズムが残されていま

す。宗教改革が開始されて間もない1522年にボヘミアの兄弟団が作成したカテキズムが

残されており、これはその後のカテキズムの端緒として、後のカテキズムの一つの範例と

なりましたが、そこで最初に問われたことは、「あなたは誰ですか」という問いでし

た。これにどう答えられたでしょうか。「わたしは神により理性を与えられた被造物であ

り、死すべき者です」と答えられます。これに倣って、ルター派によって様々なカテキズ

ムが作成されていきました。ヨハネス・ブレンツのカテキズムは、こう問います。「あな

たは誰ですか」。それにこう答えます。「初めの誕生によれば、わたしは理性を与えられ

た被造物です」。ここまでは同じですが、さらにこう続けられます。「しかし、新しい誕

生によれば、わたしはキリスト者です」と。そしてさらに問いかけます。「どうしてあな

たはキリスト者なのですか」。その答えは、「わたしはキリストの御名によって洗礼を受

けており、イエス・キリストを信じているからです」というものです。アルトハーマーの

カテキズムもほぼ同じです。「あなたは誰ですか」という問いに、「わたしはキリスト者

で、神の子です」と答え、さらに「あなたはそのことをどこから知りますか」と問い、そ

れに「わたしが神の言葉を信じており、またキリストの御名によって洗礼を受けているこ

とから知るのです」と答えます。「あなたは誰ですか」、その問いに対する答えは、「わ

たしはキリスト者で、神の子です」ということです。そしてそれをどうして知り、確信す

ることができるかというと、洗礼を受けているからというのです。


 「あなたは誰ですか」と問われて、自分はキリスト者、クリスチャンだと答える、その

理由は洗礼を授けられているからだとは、何かはぐらかされたような気持ちを抱く方もお

られるかもしれません。実はまさにそのことこそが問題なのです。わたしたちは、この世

に生きていく中で、本当の自分を見失いながら生きている、自分がキリストのものとさ

れ、さらには神の子であるということを見失い、この世の価値基準や考え方にどっぷり浸

かって生きている、そこで自分が栄光ある神の子であることを見失い、忘れてしまってい

る、そのことが問題なのです。わたしたちの信仰生活に喜びがなく、活力がなく、起こり

来る様々な問題に心がうちひしがれてしまうのは、自分が誰であるかを見失っているから

です。様々な重荷に心打ちのめされ、しゃがみこんでしまうのは、重荷が重すぎるからで

はなく、問題が大きすぎるからでもありません。本当の自分を見失っているからです。わ

たしたちは洗礼を受けて、キリストのものとされ、神の子とされました。しかしそこで与

えられている栄光と輝き、素晴らしい祝福を見失ってしまっている、だから毎日の信仰の

戦いで敗北を重ねているのです。今日から始める新しい学びは、自分が誰であるかをしっ

かりと見つめ、学び取り、そこで知った本当の自分となって信仰の歩みを力強く始めてい

くためのものです。つまり本当の自分のアイデンティティを確立していくための学びで

す。それはどこから開始されるか、先のカテキズムが明らかにするように、それは「洗

礼」からです。わたしたちは、洗礼を授けられたところから、自分のキリスト者としての

歩みを始めました。神の子としての歩みは、洗礼から開始されたのです。だから自分を正

しく知るためには、そこから自分を見つめ直すことが必要です。

 

3.古い人の死と新しい人の誕生である「洗礼」

 洗礼、それは先週お話ししたばかりでした。というよりも、実はこの学びは先週から

始められたのです。洗礼とは、古い人が死に、新しい人として生れ変わることだと。罪に

まみれた古い自分がおぼれて死に、洗い清められて、今度は新しく誕生するということだ

と。そこで洗礼槽とは、古い自分を葬った墓であり、新しい自分が生み出された子宮だ

と学びました。ローマ6章3~11節で、パウロはわたしたちが授けられた洗礼の意味を

このように語ります。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結

ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたこ

とを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりま

した。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わた

したちも新しい命に生きるためなのです。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、

キリストと共に生きることにもなると信じます」と(6章3、4、8節)。エルサレムの

キュリロスという人は『洗礼志願者のための秘儀教話』の中で次のように語っています。

エルサレムのキュリロスとは、4世紀にエルサレムの聖墳墓教会の主教として活躍した人

で、これは彼が行ったカテケーシスの一部です。聖墳墓教会は、当時の人がここはキリス

トの十字架が立てられたゴルゴダの丘とキリストが葬られた墓とした場所の上に建てられ

た教会でした。そこで洗礼を受けたばかりの人たちに、自分が授けられた洗礼とはどのよ

うなものであるかを教えて聞かせたものです。「あなたがたはキリストが十字架からここ

の間近にある墓へと運ばれたように、神的洗礼の聖なる水槽へと導かれました。そして一

人ひとりが、父の、子の、そして聖霊の名を信じるかと尋ねられました。そしてこの救い

の告白をしては三回水に浸かり、また水から上がりましたが、それでキリストの三日間の

埋葬を暗に象徴していたのです。・・・死にかつ誕生したのであって、あの救いの水はあ

なたがたにとって墓であり母でもあったのです」(2講)。洗礼とは、キリストと共に罪

に死に、キリストと共に新しく誕生したことだと教えています。


 同じことを、同時期ミラノの司教だったアンブロシウスも『秘跡』という本の中で語っ

ています。「使徒は、『洗礼を受けた者はみな、イエスの死において洗礼を受けた』

(ローマ6章3節)と叫んでいる。『死において』とは、何を意味しているのだろうか。

それは、キリストが死なれたのと同じく、あなたもまた、死を経験するように、という

意味である。また、キリストが罪に死に、神に生きられたように、あなたも洗礼の秘跡

によって、昔の罪の魅力に死に、キリストの恩恵によって復活するように、という意味で

ある。・・・あなたは、水に沈むとき、キリストの死と埋葬に類似した状態になり、キ

リストの十字架の秘跡を受ける。・・・あなたはキリストとともに十字架につけられ、キ

リストにつく」。このことについてコロサイ書はこのように語ります。「洗礼によって、

キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリ

ストと共に復活させられたのです」(2章12節)。「あなたがたは死んだのであって、

あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」(3章3節)。わたし

たちが授けられた洗礼、それはそこで古い自分が死に、キリストにある新しい自分と

なって誕生した、死と再生の場所でした。そしてわたしたちのキリスト者としての歩み

は、そこから始められていきました。すでに洗礼を授けられたわたしたちは、新しくされ

た者たちであり、神の子とされた者たちです。そこでさらに次のように語られます。「古

い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされ

て、真の知識に達するのです」と(3章9、10節)。

 

4.洗礼に際して口授され、告白された信条

 先のエルサレムのキュリロスの言葉の中に、「そして一人ひとりが、父の、子の、そし

て聖霊の名を信じるかと尋ねられました。そしてこの救いの告白をしては三回水に浸か

り、また水から上がりましたが」という件がありますが、それは当時の洗礼に基づくも

のです。その様子を伝えるのが、ローマのヒッポリュトスの『使徒伝承』です。これは

200年代初頭のローマの教会での洗礼式の様子を伝えるものです。「ひとりの助祭が同じ

ように受洗者とともに降りて行く。受洗者が水に入ると、洗礼を授ける者はその上に手

を置いて言う。『全能の神である父を信じますか』。受洗者は答える。『信じます』。す

るとただちに洗礼を授ける者は受洗者の頭に手を置いたまま、一度目の水に浸す。それか

ら次のように言う。『聖霊によっておとめマリアから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで

十字架につけられて死に、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って父の右に座し、生

きている者と死んだ者をさばくために来られる神の子、イエス・キリストを信じます

か』。受洗者が『信じます』と答えると、二度目の水に浸される。それからまた尋ね

る。『聖なる教会の中で聖霊を信じますか』。受洗者は答える。『信じます』。こうして

三度目の水に浸される」(21節)。当時の洗礼式では三回水に沈められたのですが、そ

の際に問われた言葉が伝えられています。皆さんは、おやっと思われたでしょう。そうで

す。それはほとんど『使徒信条』と同じものです。


 実はこの『使徒信条』も『ニカイア信条』も、いずれも元々は、洗礼を志願する人が長

い期間をかけてカテケーシス、つまり洗礼を受けるための準備教育を受けたわけですが、

そこで最後に総仕上げとして口授されたものでした。聖書が教える真理を短くまとめた言

葉、それが信条で、それが洗礼を受ける際に伝授され、教えられました。教会はこのよう

なことを信じている、あなたはそれを信じるかと問われて、そこで「信じます」と応答し

た者に洗礼が授けられました。最初はこのような問答形式、質問形式であり、洗礼の試

問として用いられたわけですが、それが次第に宣言の形に整えられていきました。『使徒

信条』も『ニカイア信条』も、ある教会で実際に使われていた洗礼信条が元になって発展

していったもので、それは洗礼を受けるために教えられ、洗礼に際して告白されたもので

した。つまりそれを受け入れ、信じることで、自分を新しく生まれ変わらせていった恵み

の言葉であり、それによって自分が新しく生まれ変わらされた祝福の言葉なのでした。パ

ルマティウスという人の洗礼の様子を伝えるものを見ていきましょう。パルマティウスは

220年頃のローマで洗礼を受け、後に殉教したようです。「『あなたは、心を尽くして、

すべての見えるものと見えないものとの造り主、全能の父なる神を信じますか』。パルマ

ティウスは答えて言う。『わたしは信じます』。『イエス・キリストを神の子と信じます

か』。彼は言う。『わたしは信じます』。『彼は聖霊によって、おとめマリアより生まれ

たことを信じますか』。パルマティウスは答える。『わたしは信じます』。『聖霊と、聖

なる公同の教会と、罪の赦しと、からだのよみがえりを信じますか』。ここにおいてパル

マティウスは感動のあまり涙を流し、『わたしは信じます。主よ』と叫んだ」。この言葉

を受け入れて洗礼を受けるということは、殉教という大きな代償を支払わなければならな

い時代でした。しかしそれに優る恵みと祝福を信じて、彼らは洗礼を受け、そして殉教し

ていきました。


 この世の困難と死を前にして、そこで自分を立たせていく言葉、それが信条です。わた

したちはこれからの一年間、この言葉を学んでいきます。それは、知識を増やして頭を良

くするためのものではありません。それはこれから直面するであろうどのような困難を前

にしても、そこで自分を信仰へとしっかりと立たせていく言葉であり、どんな問題の中で

心くじけそうになることがあったとしても、そこでなお自分を新しく奮い立たせていく恵

みの言葉なのです。新しく始まったばかりの一年、どんな困難に直面するかわたしたちは

知る由もありません。過ぎ去った昨年よりももっと大きな大波に見舞われて、もっと苦し

み、もっと悩むことになるかもしれません。けれどもそこで繰り返し新しく立ち上がって

いくことができる、そこで自分を本当に信仰へと立たせていく言葉、それが信条です。そ

れは、洗礼によって古い人に死に、新しい人として生まれ変わらせられたわたしたちが、

そこで日ごとに新しく生まれ変わり続けていくための言葉でもあります。確かに使徒信条

と比べて、難しい言い回しもありますが、これを告白し、学び続けていくことで、自分が

本当は誰であるかを正しく知り、そこで古い人に死に、新しい人として生きるようにされ

た、新しい生き方の道筋をしっかりとたどっていきたいと願います。カウントダウンをし

て暦が新しくなっても、それがあなたを新しくするのではありません。あなたを新しくす

るのは、ここで学ぶ神の恵みの言葉です。「あなたは誰ですか」。あなたは洗礼を受け

て、新しく生まれ、神の子とされた特別な人なのです。この世がわたしたちをどのように

評価しようと、神にとってわたしたちは特別な存在であり、あなたはかけがえのない人な

のです。なぜならあなたは神の子だからです。これからの一年、この信条を通して、信仰

を学び続けていきましょう。