第1講 まことの神

第1講 生けるまことの神

「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負っていこう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」

イザヤ46章3、4節


1.「どう信じるか」と「何を信じるか」
 「なにものの おわしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」とは、西行法師が伊勢神宮を参拝した折に詠った句とされています。ここに、日本人の宗教観がみごとに示されています。つまり日本人にとって宗教というのは、「何(誰)を信じるか」が問題であるよりも、信じる自分自身の信心や熱心さが問題だということです。お参りしている神社やお寺に何が祭られ、そこで何を拝んでいるかが大切なのではなくて、相手がどなたであれ自分がどれほど相手に対して熱心に帰依しているか、信心しているかが大切で、その自分の信念が、いわば神通力となって神や仏を動かし、そこで祈願することをかなえてもらうというわけです。だからお百度を踏んだり、滝に打たれて修業したり、座禅を組んで修養したり、多額の賽銭(さいせん)をしたりしますが、いずれも自分が神や仏に「何をするか」が大切と考えます。しかしそこで自分が一体、何を拝み誰を信じているのかについては、とんと御無沙汰しているのです。「いわしの頭も信心」、何であれ、信じている心が大切だと思うからです。

2.わたしたちを背負う神
 それに対して、聖書の神は、「あなたは誰を神として信じているか」と問い、「信仰の相手(対象)」が何であるかを求めます。「わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。正しい神、救いを与える神は、わたしのほかにはない。地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ」(イザヤ45章5、22節)。ですから聖書では、偶像礼拝といって、神でもない木や石で造られた像を拝み、それを神として信じることの愚かさが語られます。聖書にでてくる話しですが、あるきこりが山で木を切り、寒いのでその木で火を起こし、疲れたのでその火でパンを焼いて食べました。木が残っていたのでそれで自分の神を造り、それを拝んで「お救いください、あなたはわたしの神」と祈りました(イザヤ44章9-20節)。これがいわゆる世の宗教、つまり偶像の実体であり正体だと聖書は見抜きます。

 それらにはわたしたちを救う力はありません。高額な壷、霊験あらたかなお守り、寺社仏閣の祈願や御祓(おはら)いなど何の意味も、力もないことを聖書は明らかにします。そういう偶像は動物や人間に背負われて、それらの重荷となるだけです。偶像とは、わたしたちを助けるようで、実はわたしたちの重荷となるものにすぎません。そんなものにどれだけひれ伏しても、何の助けも救いも得ることはできません。「それを肩に担ぎ、背負って行き、据え付ければそれ(偶像の神々)は立つが、そこから動くことはできない。それに助けを求めて叫んでも答えず、悩みから救ってはくれない」からです(イザヤ46章7節)。しかしまことの神は、そんな重荷にあえぐわたしたちを「背負い、担う神」だと言われるのです。「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負っていこう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」と(イザヤ46章3、4節)。「また荒れ野でも、あなたたちがこの所に来るまでたどった旅の間中も、あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださった」(申命記1章31節)とうけあってくださるのが、まことの神なのです。

3.まことの神のほかに神はいない
 子どもが小さいころ、よく家族で一緒にデパートやら近くの海へ出掛けました。はじめは「早く、早く」とせかす子どもですが、帰りはたいてい疲れて眠りこんでしまいます。寝た子はすごく重くなりますが、帰りはたいてい寝た子をだっこするかおんぶして帰るはめになります。自分もひどく疲れているのに、そのうえ眠って重くなった子をだっこして帰る、つらいものでした。しかし聖書の神、まことの神は、わたしたちをこれまでそうしてきたし、今もそうしているし、これからもそうしてくださると約束してくださる神なのです。「父が子を背負うように、あなたを背負ってくださった」と約束される神なのです。それに対して偽りの神々、偶像は、わたしたちを救うことはできないし、背負うこともありません。むしろわたしたちの「重荷」となり、わたしたちがそれを背負わされるはめになるものにすぎないのです。それがどれほど美しく、見事な出来栄えであったとしても、その見かけの美しさがわたしたちを救うわけではなく、救うこともできません(イザヤ371820節、詩編115編4-8節)。それは木や石にすぎず、無力で哀れな「人間に似せて造られた像、人間にかたどられたもの」にすぎないからです(イザヤ401826節)。

「人間に似せて造られた神」とは、「人間をご自身に似せて造られた神」のパロディーです。人間が神に似せて造られたのであって(創世記1章27節)、神が人間に似せて造られるのではありません。にもかかわらず人間は、自分に似せた無力な神々を造り出し、それを神だと誤解し続けているのです。人間には人間を救うことはできません。これまであなたは、神を信じることもなく、神を知ることもなかったかもしれません。自分は無神論者だ、神など信じられないと言われるでしょう。しかしそれはあなたが、まことの神を知らず、偽りの神々、人間が空想して造りだした偽りの神しか知らず、まことの神に出会ってこなかったからです。聖書も、その意味で無神論です。なぜならまことの神以外を認めず、偽りの神々、偶像の神を否定するからです。「世の中に偶像の神などはなく、また唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです」(1コリント8章4-6節)と。

4.わたしを仰いで、救いを得よ
 こうして聖書は、何でもいいから信じれば救われるというのではなく、何でも神にして拝みさえすればよいというのでもなく、救われるかどうかは、何を信じ誰を拝むかによっているのであり、あなたが何を神とし、誰に依り頼むかということが大切であることを教えます。信じるあなたの「心」(信心)が大切なのではなくて、信じる「相手」が大切なのです。ですから「まことの救い、まことの命」にいたるために、「まことの神」を求めていきましょう。わたしたちにまことの救いを与えることができる、まことの神を。「わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。正しい神、救いを与える神は、わたしのほかにはない。地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ」。こうわたしたちに呼びかけることのできる神こそ、「生けるまことの神」です。

生ける神とは、わたしたちに語りかけ、呼びかける神です。死んだ神は、口があっても語りかけ、呼びかけることはできません。ましてわたしたちを救うことはできません。わたしたちを、その悩みから救いだし、わたしたちを背負いつづけてくださる、生けるまことの神へと心を向け、救いを求めていってください。「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負っていこう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」。